ECO-MISSION2011



10月 29日 2011

震度7の揺れで商店街の時計台が倒壊(震災直後)

震度7の揺れで商店街の時計台が倒壊(震災直後)

エコミッションを敢行するチームACPには様々な分野のプロフェッショナルがそろう。ラリードライバー、ナビゲーター、整備士からWEBやデジタル機器に精通した者までその分野は多岐にわたる。その中でも最も重要な役割の一つが旅、プロジェクトを記録することであり、カメラマンの果たす役割は大きい。その重要な任務に、絶妙なタイミングとアングルで見事こたえるのが、プロカメラマンの茅原田隊員だ。世界40カ国以上をめぐり、アフリカでのNGO活動やラリー参戦をしながら撮影をしてきたいわば冒険カメラマンである。
壮大な大自然や土煙をあげ豪快に走り抜けるラリー車を大迫力でとらえた写真の数々には誰もが驚きと感動を覚える。

何気ない笑顔を撮影する茅原田カメラマン

何気ない笑顔を撮影する茅原田カメラマン

しかし最近撮影された写真を見ると、壮大な光景とはうってかわって、ごく普通の生活を送る人々、日常の光景ばかりが目に入る。そこには非日常の風景の写真を見たときの驚きや衝撃はない。が、おもわず微笑んで、幸せな気分を感じる温かさがあるのだ。

子供たちの元気な姿を見ると、こちらも元気が湧いてくる。

子供たちの元気な姿を見ると、こちらも元気が湧いてくる。

なぜ撮影する対象が非日常から日常の光景へと変わっていったのか。
その理由は二つある。
一つは子供ができ、一緒に遊んでいるうちに日常の中にこそ本当の幸せや喜びがあるということに気付いたこと。
もう一つが東日本大震災を経験したことだ。
茅原田が住むのは仙台。海岸からは離れていたため津波に被害は直接はなかったものの震度7の揺れは容赦なく襲ってきた。街中にあるビルのガラスは割れ、崖はくずれ、ガス、水道、電気はストップ・・。
物流網が寸断され、物資も食料も手に入りにくくなったため、わずかに残った食料を販売する店には長蛇の列ができ、皆その日に食べるものを手に入れることで精一杯。余震に怯えながらうつろな表情で歩く人々には悲壮感が漂っていた。ガソリンも極端に不足し、道路を走る車も減った。
当たり前だと思っていた日常が一瞬にしてくずれた日だった。

食料品を求め多くの人が行列を作っていた(震災直後)

食料品を求め多くの人が行列を作っていた(震災直後)

ガソリンスタンドに行けば、ガソリンが入れられる。スーパーに行けば食材はなんでもそろう。蛇口をひねれば水が出る。家に帰れば家族がいる・・・・今まで何の疑問も持たずに普通にあったものが普通ではなくなった。普通の日常の光景が、いかに貴重で何事にも代えがたいことかというのを痛感させられたのだ。
震災からの復興にはライフラインの復旧、壊れた家屋の修理、という物理的な復旧、復興はもちろん大事である。
が本当の復興に必要なのは、街角にあふれる、「日常の豊かさ」であると茅原田は言う。何気ない笑顔、家族がいて笑いあえる小さな幸せ、子供たちの元気な姿、そういった光景が戻ってこそ始めて復興が進んできたといえるのではないだろうか。そしてそんな「日常の豊かさ」こそが、普段の生活ではなかなか気づくことが少ない、しかし一番大事で貴重なものなのかもしれない。
完全な復興はまだまだ時間はかかるが、震災直後の不安とうつろな表情であふれていた街角にも、笑顔と活気がもどってきている。日常の豊かさという視点で切り取られた写真からは目には見えないが確実な復興の足跡を感じるとることができるかもしれない。


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10月 28日 2011

おゆうぎ場に集まった200名の園児たちは、ずらりと並んだ見慣れない太鼓「ジェンベ」を抱え “何がはじまるんだろう?”とザワついていた。やがて、カラフルなアフリカの民族衣装でステージに上がってきたイノックさんが打ち鳴らすジェンベの一打に“きょとん”として静かになった。「Everybody! タイコタタイテー」と一緒にジェンベを叩くように促しながらリズムを刻むと、園児たちがそれに続く。はじめはバラバラにぼやけていた音の輪郭が、あっという間に一本のリズムにまとまり、強い一体感に包まれながら「ドラムカフェ」がスタートした。ドラミングとは頭で考えるものではなく、本能に訴えかけるパワーがあるのだろう、次第に複雑になっていくリズムにも、子供たちはあっという間に同調して行く。時にはアドリブを交えながらジェンベを叩く子供たちと一緒にリズムを刻んでいると、おじいさんの年齢に達したボクでも、心地よい一体感を味わうことができるから不思議だ。

200個の「ジェンベ」が奏でるドラミングは圧巻

200個の「ジェンベ」が奏でるドラミングは圧巻

アフリカの伝統的な打楽器「ジェンベ」を大人数で叩く「ドラムカフェ」は、南アフリカでアパルトヘイト(人種隔離政策)が撤廃された1995年、人種の壁を越えてお互いの理解を深めるためにスタートした。誰もが手軽に演奏できる打楽器を使い、全員でリズムを合わせる一体感が何とも心地良く、コミュニケーションを円滑にすると同時に、孤独感やストレスといった現代社会の問題を解消できるツールとして注目を浴びているという。その効果は子供たちのはじけるような笑顔を見れば一目瞭然。今回特別に参加したエコミッションスタッフも、心を揺さぶられる素敵な時間を共有し、大いに楽しませていただいた。

イノックさんの軽快なステップに思わず身体が動き出すよ

イノックさんの軽快なステップに思わず身体が動き出すよ

仙台東インターを降りて5分程走った住宅街にある学校法人旗立学園「やまびこ幼稚園」は、園児数200名と規模はそう大きくないものの、明るい黄色基調のゆったりした園舎と、大きなスロープを利用した滑り台などの遊び場がある広大な園庭で「げんきよく・たのしく・なかよく」をモットーに調和のある人間の土台づくりを丁寧に行なっていると評判の幼稚園だ。早朝から素晴らしい晴天に恵まれる中、音楽を通じて子供たちに楽しい時間を届けようとやってきた「ドラムカフェ」の公演中に充電させていただこうと、園庭にプリウスPHVを停めて“プラグイン”。熱気溢れる「ドラムカフェ」が終わった途端に園舎から飛び出してきた園児たちの“おしくらまんじゅう”に囲まれた。南アフリカから来日している底抜けに陽気なイノックさんとコリーさんもこれに加わり、次世代のクルマに目を丸くして「Wow!!」を繰り返していた。どうやら年齢も国境も越えてプリウスPHVを気にってもらえたようだ。

園児たちがプリウスPHVに大集合

園児たちがプリウスPHVに大集合

仙台に住む星山さんは、南アフリカを訪問した際に「ドラムカフェ」に魅了され、同日本法人「ドラムカフェジャパン」を立ち上げた。南アフリカから演奏者を招いて全国のイベント会場や企業内の連帯感を高めるチームワークビルディング研修などで体験会を開催し、ドラミングの持つパワーを日本に広めてきた。3.11東日本大震災以降は東北各地の被災地をめぐって「ドラムカフェ」を100ヶ所以上で開催し、被災された方々に元気を届けるために尽力してきた。誰もが簡単に演奏できる「ジェンベ」を叩くことで、それぞれの立場を越えた「共有の場」を創造し、仲間意識や絆を生み出すパワーを秘めた「ドラムカフェ」の活動をこれからも注目して行きたい。

やまびこ幼稚園の子供たち、園長先生はじめ先生方。
ドラムカフェの皆さん、楽しい時間をありがとうございました。

心ひとつに「ドラムカフェ@やまびこ幼稚園」

Music by DEPAPEPE

明日は仙台在住のTeam ACPメンバーが体験した
231日のドキュメントをレポートする予定です。
お楽しみに。


カテゴリー: ECO-MISSION2011,東北

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10月 27日 2011

飴細工のように“ぐにゃり”とひしゃげた痛々しい橋の欄干。その下をゆっくりと流れる片岸川の水面が、秋晴れの陽に照らされてキラキラと輝いている。身を乗り出すように覗き込むと、そこには濃緑の澄んだ流れにあらがうように上流を目指す鮭の姿があった。大海原を数千キロも旅を続けた末に、ようやく辿り着いた故郷の変わり果てた姿は、鮭たちの目にどんな風に写っているのだろうか。

今年も唐丹町片岸川の鮭は帰ってきてくれた

今年も唐丹町片岸川の鮭は帰ってきてくれた

東北自動車道北上江釣子I.C.から遠野市を経由してさらに東へ向かい、内陸部と沿岸を隔てるように聳える仙人峠の長いトンネルをくぐり抜けた先が “製鉄と魚とラグビーの町” 釜石市だ。3.11大震災の津波で甚大な被害を受けた事は誰もが知る所だろうが、実際に訪れて見ると7ヶ月を過ぎた今でも、壊れた信号機の代わりに手信号で交通整理をしている警官、今にも崩落しそうな建物が並ぶ商店街、うず高く積まれた水没車や瓦礫の山。凄惨な爪あとをいたるところで目にする。進まない復興の現状を目の当たりにしながら隣町「唐丹(とうに)」を目指した。

瓦礫が積み上げられた水産技術センター跡

瓦礫が積み上げられた水産技術センター跡

“鮭と和布の町”として知られる釜石市唐丹町にある片岸川は、数多くの鮭が遡上する川としてつとに有名で、紅葉の盛りを迎える今の時期には、水しぶきを上げながら川幅いっぱいに群泳しながら上流を目指す鮭の姿が毎年のように見られていた。しかし唐丹町は3.11大震災で20mを越える大津波に襲われて防波堤が崩落し、海岸付近の漁業施設や住宅は勿論、大切な多くの人命までも奪われてしまった。さらに津波の勢いは停まる事を知らず川沿いの平地を遡り、鮭の採卵場や稚魚を飼育する施設も全て奪い去り、鮭の故郷である片岸川は瓦礫に埋もれてしまう。

鮭を蘇らせるために奔走する唐丹町漁協の活動を知ったのは8月末頃の事。唐丹町では帰って来る鮭のために瓦礫を片付け「さけ人工ふ化場」再建に向けて動き出しているという話を岩手に居る友人から聞いた。しばらくして三陸沿岸の各河川で鮭の遡上が始まったとの知らせを受け、エコミッション2011@ジャパンで唐丹町を訪ね、お話を伺いたいと漁協に連絡を入れた。電話口で快く応じてくれたのが鮭を担当している指導課長の新沼さんだった。張りのある若々しい声の主に会える日を楽しみにしていた我々は「唐丹漁港」の看板を左折して坂を下り、漁協の建物を目指して港町へ入ると、真新しい白い建物が見えてきた。
空き地にプリウスPHVを停車して防波堤が崩れてしまった港を見ていると、クルマがこちらへ近づいてきて白髪をオールバックにした紳士が降りてきた。“どうも、こんにちは” 聞き覚えのある張りのある声、唐丹町漁協の新沼さんだった。

鮭復活への熱い思いを語る新沼さん

鮭復活への熱い思いを語る新沼さん

漁協の建物に招き入れていただき挨拶を済ますと、新沼さんが震災当時からこれまでの経緯を話し始めた。

「津波の第一波が防波堤を越えて、ナイヤガラの滝みたいに町の方へ流れだして地面を掘ったんです。それで引き波で防波堤が崩れた。第二波はさらに高くて20m以上、この高台にある事務所の一階も水びたしでした。その波が、ふ化場のある川の奥まで到達した後、引き波が全てを海に運んで何も残っていなかったんです。唐丹は鮭の町ですから一時は途方に暮れましたが、何とかしなきゃいけない。再建しようという決断は早かったですよ。もう4月には船の発注から、ふ化場の計画までやる事は決めていましたから。何をするべきかは全部解っています、震災前に戻せばいい訳です。合図の旗を振ればみんなが一致団結して頑張れるものです。ですから先頭に立つ人間が “やる!” と言えるかどうかが大切でしょうね。幸いにも唐丹町漁協のトップはそれが出来た。」

震災前の美しい唐丹港や鮭漁の写真をテーブルに広げて見せながら、力強く自信に満ちた言葉で続けた。

「鮭は毎年この時期に帰ってきますから、準備する時間は限られています。今年帰って来る鮭の卵から稚魚を育てて放流できなければ、3年後には途絶えてしまうんです。何としても間に合わせなければ、再建はさらに困難になります。だからみんなで頑張れたんだと思います。去年までの半分以下の規模ですが、途切れずに続けて行く事ができれば、段々と増やすのは難しくないと思います。これから案内しますので、一緒に現場を見に行きましょう。」

クルマを連ねて片岸川の採卵場へ到着すると、鮭を取り込む木製の台を仕上げる作業に大工さんが汗を流している。川に仕掛けられた定置網を覗くと、たくさんの鮭が頭を振りながら網を乗り越えようとする元気な姿に思わず “うわ、すごい!”と声をあげてしまった 。確かに唐丹の鮭は故郷の川へ帰って来たのだ。その後、少し上流に建設中のふ化場と稚魚飼育施設を見せていただいたが、すでに水路の防水塗装作業も大詰めで、孵化までに完成に漕ぎ着けそうでひと安心しているとの事。限られた時間の中で、これほど立派なものが出来たものだと感心させられた。来年の春には6cm程に成長した稚魚たちを、地元の小学生と共に放流するのを今から楽しみにしていると語る新沼さんの嬉しそうな笑顔がたまらない。

宝石のように輝く鮭の卵たち

宝石のように輝く鮭の卵たち

遮光カーテンで仕切られた建物に案内されると、片岸川の清流を取り込んだ水槽がずらりと並ぶ薄暗い部屋で、採卵したばかりの受精卵がで大切に飼育されていた。フタを開けて見せてくれたが、中は宝石のように輝く卵がぎっしり。一日の採卵数は50万粒程で、近年の技術革新で生存率も上昇し、9割以上が稚魚として放流されているという。

「採卵は21日にスタートしたばかりで、これから数を増やして行く予定です。何とかここまで来れましたから、順調に行って来年にはできるだけたくさんの稚魚を放流したいですね。」

そう語る新沼さんの表情は、できる事をやり遂げた自信と、これからやらなければならない事への責任感に満ちていた。

“鮭よ帰れ”と奔走する釜石市唐丹町漁協を訪ねた

Music by DEPAPEPE

唐丹漁協のように復興への足がかりを掴みかけた所でさえも、次のステップへ進む上で、行政のスピード感の無さが弊害になっている。例えば震災で失った船を新造・修理するにしても、一定の補助金が出るという話は出ているものの、支払いを先に済ませないと前へ進めないため、漁協や個人の負担が多すぎてどうにもならない。船や漁具を調達する目処が立たず、やむなく廃業に追い込まれるケースも増えているいう。行政には、いち早く生活基盤の保証に着手して、日本の食卓を支えてきた東北の漁業をバックアップして欲しいと願うばかりだ。

唐丹町漁協から、是非伝えて欲しいと言われたのが「密漁問題」。
震災以降、監視が手薄になっているのに付け込んで、漁協組合員以外がせっかく帰って来た鮭を捕まえたり、磯場へ潜ってサザエやあわびを密漁する不届き者が増えている。鮭も貝類も自然のものではなく、漁協が大変な労力と資金を注ぎ、放流して管理する“畜養漁業”の産物で、密漁は重大な犯罪。万一見かけた方は、すぐに漁協または地元警察に連絡してほしい。尚、取り押さえるなどの行為は危険が伴う場合があるので、通報のみに留めていただきたい。


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