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コラム

 

「ゴミ端会議」(熊本県・水俣市)

 水俣と聞いて、真っ先に思い浮かぶのは「水俣病」である。 戦後の経済復興の影に、悲しい運命を背負った町がある、人口32000人、熊本県の南端に位置する水俣市がそれだ。窒素工場から流された水銀が水俣湾の魚を汚染した、 やがて、その魚を食べた住民が奇病に悩まされていく、それは「水俣病」と呼ばれた。 1956年、水俣病公式発見により湾内の魚まで外洋に出ないための仕切網で隔離され 住民は「伝染」を恐れた。最も悲劇は加害者と被害者が同じ町だったことである。

 水俣市の住民同士のつながりが完全に破壊されてしまった、都会に就職した若者はひたすら水俣出身であることを隠さなければならない、なんとも悲しい人生を歩んでいた。 1997年、40年もの歳月を経てようやく国は「安全宣言」を出した。 沿岸に張られた4キロの仕切網がはずされ魚たちも自由に回遊することができ、森も川も全ての水も綺麗になり、森と海が織り成す水俣市の自然は元の姿になったと言える。 しかし、世間に聞こえた暗いイメージは一夜にして消えるわけではない、特産の柑橘類や海産物は思うように出荷が延びない。

 安全宣言されたといっても消費者は「何か」を恐れているのであろう。疑われた町、水俣はどこに向かえばよいのか、生まれ変わることができるのか、低く垂れ込んた暗い空にさわやかな風を吹き込んだのは市民だった。 71歳になる坂本スミ子さんが発起人となって「ゴミ端会議」が発足する。 地域の婦人会をブロックごとに分けて、家庭ごみの資源化を目指す「ゴミ端会議」は、 ずたずたになった人間関係を復活してゆく。毎日、午後4時に町内の指定された場所に 設置された分別ゴミ箱に住民が資源ゴミを持って集まってくる。

 当番制で主婦が分別の説明と指導をする。捨てる人と受け取る人が、和やかな雰囲気で交流する。驚くことに 24種類に分別された資源ゴミは、全て綺麗に洗い流されていた。捨て方を説明していたおばさんが「佃煮のビンも蓋を分けしっかり洗ってあれば資源になります」 捨てられた、フライパンもピカピカに洗ってあった、大分からバスで乗り付けてきた市の視察団はワイシャツの汗を拭きながら「うちの町の衆は、ここまでやれるだろうか? と苦笑いしていた。現在、資源ゴミ回収業者から水俣のゴミは「ブランドゴミ」と呼ばれているそうだ。

 水俣市は1999年2月、環境マネジメントシステムに関する国際規格、ISO・14001を全国で6番目に取得している。クリーンな町に変身した水俣の商品は右肩上がりで出荷されている、全国からの行政調査団は引きも切らず、宿泊施設も活気が蘇えった。一人の主婦が起こした{再生}の取り組みは町を復活させたのだ。

自動車環境評論家  横田紀一郎  

「ゴミ端会議」の面々、左端が発起人の坂本スミ子さん(71歳) 右端は筆者。 町の資源ゴミを回収する「ゴミ端会議」の主婦たち。TV取材も来ていた

 


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