地域住民から聞取り調査したダム建設以前の球磨川の様子を記した手描きの地図を見せていただいた。

日本初!! 発電用ダム撤去と河川の環境「荒瀬ダム」

撤去工事が進み左側3本の門柱が取り除かれた荒瀬ダムの現在の姿。
撤去工事が進み左側3本の門柱が取り除かれた荒瀬ダムの現在の姿。

遥か昔、球磨川は巨岩ひしめく川床を激しい流れがぶつかり合いながら八代平野まで一気に下る“暴れ川”だった。江戸初期になると、上流の山間部に豊富にあった銘木を切り出して運ぶために、林正盛という人物が私財を投じて水運の航路を切り開いた。無数に転がる巨岩の開削は困難を極めたが、3年後、いかだを通す“川路”が開通すると、物流の幹線として流域に富をもたらし、そこに暮らす人々と球磨川のより深い関わりが始まった。

水量が豊富な清流「球磨川」の中流域。
水量が豊富な清流「球磨川」の中流域。

滔々とうとうと流れる球磨川中流域では、木材を組んだ筏や川船が行き交う航路として栄えていた。川漁師がいくら穫っても減らないと豪語するほど大量の鮎が棲息し、30センチを超す尺鮎が川床を黒く埋め尽くしていたという。川の水は飲用を含めて全ての生活用水に利用され、流域の暮らしは球磨川と密接に結びついていた。

日本三大急流に数えられる球磨川に掛かる橋は高く強固な鉄橋が多い。
日本三大急流に数えられる球磨川に掛かる橋は高く強固な鉄橋が多い。
かつては船で積み出された銘木が2連結のトラックに取って替わられた。
かつては船で積み出された銘木が2連結のトラックに取って替わられた。

1953年、戦後復興・高度成長期の電力確保のため、九州初の大型発電ダムの建設計画が発表され、荒瀬地区で大きく蛇行する川の地形を活用した「荒瀬ダム」が2年後に完成。球磨川の悠久の流れは封印され、その代償として熊本県で消費される電力の16%が、ダムに隣接する藤本発電所から供給される事となった。

やがて流れを制限されて淀むダム周辺にはアオコが発生し、発電所の放水口では泡がはじける度に悪臭が立ちこめるようになる。そうしたある日、発電と共に氾濫を抑える“治水”を謳っていたダムが溢れ、旧坂本村を洪水が襲った。

ダムの完成から半世紀が経ち、瀕死の球磨川の惨状、ダムによって洪水被害が拡大したのではないかと不信感、放水による振動被害など、多くの問題に決着をつける時がきた。

ダム容認派の村長を住民投票で退けると、2002年、村議会はダム撤去を求める請願書を熊本県に提出した。全国的にもダム建設問題に注目が集まる中、潮谷義子熊本県知事がこれに賛同して、荒瀬ダムの撤去方針が発表される。その後事態は二転三転するが、2010年3月末で失効する水利権更新の時期を迎え、ついに荒瀬ダムの撤去が決定された。

荒瀬ダムの情報を求めて道の駅「さかもと館」へ立ち寄った。
荒瀬ダムの情報を求めて道の駅「さかもと館」へ立ち寄った。
球磨川・荒瀬ダムの情報展を開催している。
球磨川・荒瀬ダムの情報展を開催している。
荒瀬ダムが出来る前から撤去工事の詳細までをビデオやパネルで紹介している「地域情報展示室」。
荒瀬ダムが出来る前から撤去工事の詳細までをビデオやパネルで紹介している「地域情報展示室」。
ダム建設以前、昭和30年頃の荒瀬地区(複写:地域情報館)
ダム建設以前、昭和30年頃の荒瀬地区(複写:地域情報館)
荒瀬ダム完成直後。当時は熊本県の16%の電力をまかない、戦後復興の旗印だった。(複写:地域情報館)
荒瀬ダム完成直後。当時は熊本県の16%の電力をまかない、戦後復興の旗印だった。(複写:地域情報館)
上流側から見た現在の荒瀬ダム。
上流側から見た現在の荒瀬ダム。

撤去工事はすでに2010年3月末で発電を停止て水門を開放している藤本発電所を含め、2012年度から6年計画で行われ、88億円の巨費が投じられる一大プロジェクトだ。特に下流域へのダメージを最小限に抑えるための発破方法や掘削工法などの新たな技術開発も不可欠で、さらには生態系を軸とした周辺環境のモニタリング実施など、日本初のダム撤去ならではの課題をどうクリアできるかに注目が集まっている。

ダムの撤去と共に解体される藤本発電所。
ダムの撤去と共に解体される藤本発電所。
発電用取水口も埋め戻される。
発電用取水口も埋め戻される。
排水溝の前には、新たに堤防が築かれる。
排水溝の前には、新たに堤防が築かれる。
連続削孔+油圧クサビと呼ばれる粉塵などが出にくい方法で空けられた穴から勢い良く水が流れていた。
連続削孔+油圧クサビと呼ばれる粉塵などが出にくい方法で空けられた穴から勢い良く水が流れていた。
旧管理事務所には“荒瀬ダム55年間ありがとう”の横断幕が掲げられていた。
旧管理事務所には“荒瀬ダム55年間ありがとう”の横断幕が掲げられていた。
“和嶋”の先代で旧坂本村議会議員だった福嶋英治さんに話を伺った。
“和嶋”の先代で旧坂本村議会議員だった福嶋英治さんに話を伺った。

ダム撤去を押し進めたひとり、旧坂本村議会で副議長を務めていた福嶋英治さん(83歳)にお会いする事ができた。当時の撤去申請書類や新聞、写真などを段ボール箱から取り出して見せながら嬉しそうに語る。

「いろんな事がありました。それは大変でしたよ。ダムのおかげで濁って酷い臭いがしていた川でしたが、今はご覧の通り、球磨川はきれいになった。本当に嬉しいですよ。」

笑顔の奥には球磨川を救うためにやり遂げた自信と誇りに満ちた眼差しがあった。

ダム撤去運動の拠点となったドライブイン“和嶋”。
ダム撤去運動の拠点となったドライブイン“和嶋”。
当時の資料を出してきていただいた。
当時の資料を出してきていただいた。
地域住民から聞取り調査したダム建設以前の球磨川の様子を記した手描きの地図を見せていただいた。
地域住民から聞取り調査したダム建設以前の球磨川の様子を記した手描きの地図を見せていただいた。
この場所にダムが出来てから川が激変。悪臭が漂うまでになったという。
この場所にダムが出来てから川が激変。悪臭が漂うまでになったという。
幾度となく新聞に取り上げられている。
幾度となく新聞に取り上げられている。

全国には荒瀬ダムと同時期に建設されて老朽化した発電ダムが数多く稼働している。開業当時は熊本県の主要な電力供給元だった荒瀬ダムと藤本発電所も、閉鎖直前は0.6%にまで落ち込んでいた。とは言え解体によって年間約7,400万Kw(約4万世帯分)の電力を失った事になる。原発も停止している今、環境とエネルギーの問題は、さらなる選択を迫られる時期に来ている。

日本初の発電用ダム撤去「荒瀬ダム」

荒瀬ダム 空撮