遥か昔、球磨川は巨岩ひしめく川床を激しい流れがぶつかり合いながら八代平野まで一気に下る“暴れ川”だった。江戸初期になると、上流の山間部に豊富にあった銘木を切り出して運ぶために、林正盛という人物が私財を投じて水運の航路を切り開いた。無数に転がる巨岩の開削は困難を極めたが、3年後、
1953年、戦後復興・高度成長期の電力確保のため、九州初の大型発電ダムの建設計画が発表され、荒瀬地区で大きく蛇行する川の地形を活用した「荒瀬ダム」が2年後に完成。球磨川の悠久の流れは封印され、その代償として熊本県で消費される電力の16%が、ダムに隣接する藤本発電所から供給される事となった。
やがて流れを制限されて淀むダム周辺にはアオコが発生し、発電所の放水口では泡がはじける度に悪臭が立ちこめるようになる。そうしたある日、発電と共に氾濫を抑える“治水”を謳っていたダムが溢れ、旧坂本村を洪水が襲った。
ダムの完成から半世紀が経ち、瀕死の球磨川の惨状、ダムによって洪水被害が拡大したのではないかと不信感、放水による振動被害など、多くの問題に決着をつける時がきた。
ダム容認派の村長を住民投票で退けると、2002年、村議会はダム撤去を求める請願書を熊本県に提出した。全国的にもダム建設問題に注目が集まる中、潮谷義子熊本県知事がこれに賛同して、荒瀬ダムの撤去方針が発表される。その後事態は二転三転するが、2010年3月末で失効する水利権更新の時期を迎え、ついに荒瀬ダムの撤去が決定された。
撤去工事はすでに2010年3月末で発電を停止て水門を開放している藤本発電所を含め、2012年度から6年計画で行われ、88億円の巨費が投じられる一大プロジェクトだ。特に下流域へのダメージを最小限に抑えるための発破方法や掘削工法などの新たな技術開発も不可欠で、さらには生態系を軸とした周辺環境のモニタリング実施など、日本初のダム撤去ならではの課題をどうクリアできるかに注目が集まっている。
ダム撤去を押し進めたひとり、旧坂本村議会で副議長を務めていた福嶋英治さん(83歳)にお会いする事ができた。当時の撤去申請書類や新聞、写真などを段ボール箱から取り出して見せながら嬉しそうに語る。
「いろんな事がありました。それは大変でしたよ。ダムのおかげで濁って酷い臭いがしていた川でしたが、今はご覧の通り、球磨川はきれいになった。本当に嬉しいですよ。」
笑顔の奥には球磨川を救うためにやり遂げた自信と誇りに満ちた眼差しがあった。
全国には荒瀬ダムと同時期に建設されて老朽化した発電ダムが数多く稼働している。開業当時は熊本県の主要な電力供給元だった荒瀬ダムと藤本発電所も、閉鎖直前は0.6%にまで落ち込んでいた。とは言え解体によって年間約7,400万Kw(約4万世帯分)の電力を失った事になる。原発も停止している今、環境とエネルギーの問題は、さらなる選択を迫られる時期に来ている。