東海



10月 30日 2011

東京湾有明埠頭でフェリー乗船を待つプリウスPHV(3月30日)

東京湾有明埠頭でフェリー乗船を待つプリウスPHV(3月30日)

“自然と人とクルマの共生”をテーマに1999年から環境最前線を巡ってきた「エコミッション」は目的を失いかけていた。エコミッション2011@ジャパンがスタートした3月末、東日本大震災の衝撃が連日のように報道され、“未曾有の大災害”に見舞われてしまった今、もっとやるべき事があるのではないか。そんな思いが脳裏を過った。しかし、沖縄をスタートして北海道まで膨大な時間と労力を掛けて日本を縦断する壮大なミッション。そこにはたくさんの出会いが待っているはずだ。ならば、ボクたちも出来る事はある。

「日本中から元気を集めて被災地に届けよう。こんな時だからこそ、日本の“今”を記録に残そう。」

こうして新たな目的を携えて、3月30日に東京湾有明埠頭から那覇港へ向かうフェリーにプリウスPHVと共に乗船した。桜前線がゆっくりと日本列島を染めはじめた頃だった。

津波の被害から再生した「三井アウトレットパーク仙台港」

津波の被害から再生した「三井アウトレットパーク仙台港」

17〜8年前から大都市近郊の広大なスペースに“アウトレットモール”が続々とオープンし、若いファミリー層を中心に絶大な人気を博している。2008年秋、仙台都心部からクルマで30分程の北東郊外の仙塩地区にも、大観覧車が目印の「三井アウトレットパーク仙台港」がオープンし、週末ともなれば市内はもとより東北各地からたくさんの家族連れやカップルで賑わいを見せて楽しい時間が流れていた。しかし、3.11東日本巨大地震がもたらした大津波は沿岸の街を飲み込み、甚大な被害をもたらした。津波は大勢の買物客を集める商業施設にも牙をむいたのだ。2mに達した濁流にのって駐車場のクルマが館内に流れ込み、1階部分は壊滅状態に。加えて膨大な泥が一帯を覆い尽くし長期閉館を余儀なくされた。しかし、復興の固い決意のもとに急ピッチで工事を進め、3ヶ月後にはリニューアルオープンを果たし、まるで何ごともなかったかのように立ち上がった「三井アウトレットパーク仙台港」のいち早い復旧に、誰もが勇気づけられた。現在は、敷地内はもちろん周辺地域も整備され、かつての姿を取り戻している。

復興応援フラッグの前でパフォーマンスの始まり

復興応援フラッグの前でパフォーマンスの始まり

仙台復興のシンボルともなった「三井アウトレットパーク仙台港」がエコミッション2011@ジャパングランドフィナーレの舞台だ。エントランス壁面には、日本中から集めた被災地への応援メッセージと、4ヶ月間12,000kmの記憶が詰まったフラッグが掲げられ、旅を支えたプリウスPHVが展示された。週末の2日間、多くの買物客がエコミッションの旅の記録に足を止め、激励の言葉を掛けてくれた。そして嬉しいサプライズ。先日訪問した「やまびこ幼稚園」でパフォーマンスを披露してくれた「ドラムカフェ」のみなさんが、エコミッションがゴールを迎えると知って、アフリカ伝統衣装に身を包みドラムを携えて訪問してくれたのだ。強力なバックアップをいただいて大いに盛り上がり、被災地仙台で迎えたゴールイベントはたくさんの笑顔に包まれながら2日間の日程を終えた。

家族連れのお客様がプリウスPHVを見に来てくれた

家族連れのお客様がプリウスPHVを見に来てくれた

“あの日”から何かが変わった。本当に大切なものとは目に見える物質的なモノではなく、人の心が繋がる事。食べ物も衣服も家も、そしてクルマも、心が繋がるための物作りの出来る日本であって欲しいと思うし、それが出来る唯一の国だと信じている。日本中の訪問先で受け取ってきた温かい心を、ここ仙台でも感じる事ができた。元気を届けるはずだったボクたちは、実は元気をいただきながら旅を続けてきたようだ。やっぱり“日本ってすばらしい!”

お世話になった方々。このサイトで応援してくれたみなさん。ありがとうございました。
ますます日本が大好きになりました。
Team ACPはこれからも“すばらしい何か”を求めてチャレンジを続けて行きます。
ご期待ください。

ファイナルイベント@仙台

Music by DEPAPEPE


カテゴリー: ECO-MISSION2011,中国,中部,九州,北海道,北陸,四国,東北,東海,沖縄

トラックバック Uri






8月 12日 2011

太平洋と日本海の分水嶺に当たる大日ヶ岳、烏帽子岳周辺の山々から流れこむ豊富な水を満々と湛える御母衣湖を見守るように2本の古木が並んでいる。樹高20m、幹周6mを超える堂々とした姿は圧倒的な存在感と威厳に満ちている。樹齢450年と推定される2本のアズマヒガンザクラは「荘川桜」と呼ばれ、豪雪地として知られるこの辺りの遅い春の開花時には、毎年のように大勢の花見客で賑わいを見せる。真夏に桜とは季節外れと思うだろうが、青々とした葉を茂らせ太陽をいっぱいに浴びて輝く姿も一興。開花のためにパワーを蓄える桜のそばで深呼吸すると、こちらまで元気をもらえる気がする。

荘川桜とプリウスPHV

荘川桜とプリウスPHV

戦後の復興から高度成長期を迎えた頃、電力需要の急激な高まりから日本中で水力発電所建設が進められ、山間部の川沿いの村が次々と湖底に没していった。急流で水量の多い庄川は水力発電を行うには理想的な川として、黒部川など近隣を流れる河川と共に建設計画がスタートしたが、地質調査の結果脆弱な地盤が露呈し、当時発足したばかりの関西電力では工事の遂行が困難であると見た政府は1952年に発足した特殊法人・電源開発(現・電源開発株式会社 J-POWER)に事業を移管させる方針を決めた。

ダム建設が予定された白川村・荘川村は、平地が少なく稲作が出来ない飛騨地方の貴重な穀倉地帯だった。父祖伝来の土地を愛し、除雪作業や合掌造りの建て替えなどを通じて強固な地域共同体が形成されていた住民が「御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会」結成して反対運動を展開し保証交渉は難航した。

幸福の覚書
「御母衣ダムの建設によって、立ち退きの余儀ない状況にあいなった時は、貴殿が現在以上に幸福と考えられる方策を我社は責任をもって樹立し、これを実行することを約束する。」

住民に提示した覚書に沿った誠意ある交渉を行うことによって、頑なに拒否していた「死守会」も態度を軟化させて話し合いに応じる姿勢を取り、電源開発の初代総裁・高碕達之助と住民が足掛け7年の歳月を掛け、時には双方が涙しながら膝詰めで互いの真情を吐露し、真正面から対峙した末に、全水没世帯との補償交渉は妥結した。国策を担う重責に向かう覚悟と、それを受け入れた断腸の思いに心打たれるエピソードだ。

「死守会」解散式に招かれた高碕は、自分の責任で水没する集落を散策中に光輪寺境内にある老桜を発見し、水没移住する人々の心のよりどころとして移植することを提案、日本一の桜博士「桜男」と呼ばれていた笹部新太郎に依頼した。現地を訪れた「桜男」は、近くの照蓮寺の境内にもう1本の巨桜を発見し、万が一1本が枯れてももう1本が助かればとの想いから2本の移植を提案する。外傷に弱い桜の古木を移植するのは不可能と言われたが、1960年11月に移植の大工事が行われ、翌春、奇跡的に2本とも蘇生して現在の姿がある。後に高崎が水没した村名にちなんで「荘川桜」と名付けた。

電源開発(J-POWER)は創立50周年を記念して、2002年から荘川桜の実生の実から育てた苗木を全国の小中学校を中心に贈り、植樹を行っているという。荘川桜二世は高碕達之助が残した魂とともに後世に引き継がれている。

遅い春をむかえ満開の荘川桜

遅い春をむかえ満開の荘川桜

荘川桜の詳しい内容はこちらから
http://www.sakura.jpower.co.jp/

※画像提供:電源開発株式会社(J-POWER)様


カテゴリー: ECO-MISSION2011,北陸,東海

トラックバック Uri






8月 11日 2011

分水嶺で遊ぶ子供たち

分水嶺で遊ぶ子供たち

薄日の指す空模様が一転、厚い雲に覆われた途端に雷鳴が轟き、今にも降り出しそうな空模様の中、長良川の水を辿ってきた岐阜の旅も終盤、ついに源流部に到着した。大日ケ岳から湧き出した一滴が小さな流れを作り、白樺が林立する湿原を流れてきた一筋が「分水嶺」で2つに分かれ、一方は長良川となって太平洋へ、もう一方は庄川となって日本海へと注ぐ。これ程はっきりした分水嶺は全国的にもめずらしく、街道筋に近い事から「ひるがの分水嶺公園」として開放され多くの来訪者を集めている。落ち葉を数枚拾って源流から流して見ると、小さな池でくるくると回りながら、やがて2つに別れ吸い込まれるように流れて行った。同じ木から落ちた葉だが2度と出会う事は無いだろう。それぞれの流れる先には全く違った人々の暮らしがあるのだ。そう思うと分水嶺とは何と感慨深いものだろうか。

ひるがの分水嶺公園

ひるがの分水嶺公園

美味しい水に慣れ親しむ岐阜の人たちが、ここの水は天下一品と口を揃える銘水があると聞き、訪ねて見ることにした。郡上八幡から高賀山を目指して西へ10キロ程走り、長いトンネルをくぐり抜けると、深い緑に包まれた谷に出る。やがて、ごろごろと転がる巨岩の合間を縫うようにエメラルドグリーンの清らかな水が流れる高賀渓谷が現れる。そこから20キロ程山道を分け入った先に、目指す銘水が湧き出る“高賀神水庵”があった。平成8年に円空ゆかりの高賀神社が、参道わきの高賀谷戸で地下約50mの井戸を掘り、宮水として利用したのが始まりで「ふくべの霊水」と呼ばれる。平成9年、愛知工業大学土質工学の大根義男教授が「高賀山周辺は古生代から中生代にできた地質で、1億から2億5千万年前の砂岩層の上に閉じこめられた水が、そのまま湧き出している可能性が高い。」と発表したことから、周辺の人たちがこぞって水を汲みに来るようになった。平成12年には新聞やテレビで、シドニ-オリンピックマラソン金メダリスト高橋尚子選手が愛飲していたと報じられると人気に拍車がかかり、土日は終日行列ができるほどの盛況ぶりだという。

柔らかく甘みのある「ふくべの霊水」

柔らかく甘みのある「ふくべの霊水」

砂利敷の駐車場にプリウスPHVを止め、参道を歩くと東屋風の建物に人が集まっている。神社境内特有の厳かなムード漂う場所に、懇々と湧き出す“ふくべの霊水”をゆっくりと口に含むと、わずかに甘みを感じ、スッと身体に入ってくるような美味しさに驚かされた。一億年以上も前の水が、手にした柄杓の中にあるのが何とも不思議だ。初穂料の100円を払えば自由に汲んで持ち帰る事ができるとあって、大きなポリタンクを抱えた人が次々とやって来る。話を伺うと「この水でご飯を炊くと、ふっくら米粒が立ち、ご飯にツヤが出ておいしく炊き上がるし、お茶とかコーヒーも美味しくなりますよ。」と笑顔で話してくれた。

水を求めて沢山の橋を渡った

水を求めて沢山の橋を渡った

大垣をスタートし、岐阜、美濃、郡上と長良川を遡りながら“水”を追ったこの旅で、川を愛し、川と共に暮す人々の心に根付く“水”の持つチカラを実感することができました。明日は最上流部に根を下ろす桜の古木の物語を紹介します。
お楽しみに。


カテゴリー: ECO-MISSION2011,北陸,東海

トラックバック Uri