複雑に入り組んだ海岸線が続く田辺湾の北側に、ひと際こんもりとした森が特徴的な岬が突き出ている。かつて南方熊楠が情熱を注いだ環境保護の思いを今につなぐ「ナショナルトラスト運動」の現場、天神崎だ。
田辺市街の目抜き通りから海側に向かう路地を曲がると、住宅地に囲まれた天神崎の森が見えてきた。道はますます細くなり、狭い切り通しの向こうにキラキラと輝く田辺湾が顔を覗かせている。
まるで緑のトンネルのような坂を下りきった所で視界がパッと開け、広い岩礁海岸に出た。海中を覗くと、小魚が群れ泳ぎ、カニや貝なども無数にうごめく豊かな磯を実感する。休日とあって家族連れや釣り人など多くの市民が海辺で晴天を満喫し、あちらこちらから子供たちの歓声が聞こえてくる。
人口10万を抱える田辺市の中心街に隣接し、人の暮らしと密接に関係してきた天神崎は、40年前、別荘地開発計画が持ち上がったことに端を発し、1974年、公益財団法人「天神崎の自然を大切にする会」が発足、ナショナルトラスト運動の先駆けになった事で知られた場所だ。
“ナショナル=みんなの トラスト=預かりもの 運動”とは、国民的財産である美しい自然景観や貴重な文化財・歴史的環境を保全し、利活用しながら後世に継承していくことを目的とし、市民の寄金で買いとり保全していく運動のこと。景観としての美しさというより、むしろ人の暮らしと密接に関係しながら共生している自然環境を自分たちの手で守る事がこの運動の本質なのだ。
現在、天神崎の大半の森が市民の寄付金で買い取られて保護され、海岸清掃活動や自然観察会などのイベントが定期的に開催され、近畿圏を中心とした多くの小中学校が参加するなど、運動の輪が拡大を続けている。
これは、かつて南方熊楠が地域の人々の心のよりどころの神社や、住民に密着した自然環境の一つである鎮守の森を保護しようとした“神社合祀反対運動”への思いを今につなぐ活動に他ならない。対岸の神島を望む田辺高山寺で安らかに眠る南方熊楠は、この市民運動を微笑んで見守ってくれているのかも知れない。