太平洋と日本海の分水嶺に当たる大日ヶ岳、烏帽子岳周辺の山々から流れこむ豊富な水を満々と湛える御母衣湖を見守るように2本の古木が並んでいる。樹高20m、幹周6mを超える堂々とした姿は圧倒的な存在感と威厳に満ちている。樹齢450年と推定される2本のアズマヒガンザクラは「荘川桜」と呼ばれ、豪雪地として知られるこの辺りの遅い春の開花時には、毎年のように大勢の花見客で賑わいを見せる。真夏に桜とは季節外れと思うだろうが、青々とした葉を茂らせ太陽をいっぱいに浴びて輝く姿も一興。開花のためにパワーを蓄える桜のそばで深呼吸すると、こちらまで元気をもらえる気がする。
戦後の復興から高度成長期を迎えた頃、電力需要の急激な高まりから日本中で水力発電所建設が進められ、山間部の川沿いの村が次々と湖底に没していった。急流で水量の多い庄川は水力発電を行うには理想的な川として、黒部川など近隣を流れる河川と共に建設計画がスタートしたが、地質調査の結果脆弱な地盤が露呈し、当時発足したばかりの関西電力では工事の遂行が困難であると見た政府は1952年に発足した特殊法人・電源開発(現・電源開発株式会社 J-POWER)に事業を移管させる方針を決めた。
ダム建設が予定された白川村・荘川村は、平地が少なく稲作が出来ない飛騨地方の貴重な穀倉地帯だった。父祖伝来の土地を愛し、除雪作業や合掌造りの建て替えなどを通じて強固な地域共同体が形成されていた住民が「御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会」結成して反対運動を展開し保証交渉は難航した。
幸福の覚書
「御母衣ダムの建設によって、立ち退きの余儀ない状況にあいなった時は、貴殿が現在以上に幸福と考えられる方策を我社は責任をもって樹立し、これを実行することを約束する。」
住民に提示した覚書に沿った誠意ある交渉を行うことによって、頑なに拒否していた「死守会」も態度を軟化させて話し合いに応じる姿勢を取り、電源開発の初代総裁・高碕達之助と住民が足掛け7年の歳月を掛け、時には双方が涙しながら膝詰めで互いの真情を吐露し、真正面から対峙した末に、全水没世帯との補償交渉は妥結した。国策を担う重責に向かう覚悟と、それを受け入れた断腸の思いに心打たれるエピソードだ。
「死守会」解散式に招かれた高碕は、自分の責任で水没する集落を散策中に光輪寺境内にある老桜を発見し、水没移住する人々の心のよりどころとして移植することを提案、日本一の桜博士「桜男」と呼ばれていた笹部新太郎に依頼した。現地を訪れた「桜男」は、近くの照蓮寺の境内にもう1本の巨桜を発見し、万が一1本が枯れてももう1本が助かればとの想いから2本の移植を提案する。外傷に弱い桜の古木を移植するのは不可能と言われたが、1960年11月に移植の大工事が行われ、翌春、奇跡的に2本とも蘇生して現在の姿がある。後に高崎が水没した村名にちなんで「荘川桜」と名付けた。
電源開発(J-POWER)は創立50周年を記念して、2002年から荘川桜の実生の実から育てた苗木を全国の小中学校を中心に贈り、植樹を行っているという。荘川桜二世は高碕達之助が残した魂とともに後世に引き継がれている。
荘川桜の詳しい内容はこちらから
http://www.sakura.jpower.co.jp/
※画像提供:電源開発株式会社(J-POWER)様
カテゴリー: ECO-MISSION2011,北陸,東海
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